ココちゃん通信25-01-18(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)

2025年1月18日 第1283号 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)

【1面】

―1593―

17 嶽山城の戦い 

大阪府河南町弘川43           
                                         1463年(寛正4)、河内守護・畠山政長が弘川寺に本陣を置き、畠山義就が立て籠もる嶽山城を攻撃したことにより、逆に本陣であった弘川寺が攻撃され、善成寺もろとも伽藍は焼失しました😭これが嶽山城の戦い(だけやまじょうのたたかい)です😲            

嶽山城の戦いは、1460年(寛正元)12月19日から1463年(寛正4)4月15日にかけて河内国嶽山城で行われた戦闘(現・大阪府富田林市)で、畠山義就が室町幕府から反逆者として追われます。その畠山義就は嶽山城に籠城し2年以上に渡って幕府の追討軍と戦いました🤬                   -随時掲載-写真撮影・ザウルスちゃん 

【2面】

畠山氏は1454年(享徳3)に河内・紀伊・越中守護畠山持国の後継者を巡りお家騒動が勃発し息子義就と甥の畠山弥三郎(政久)が争い、弥三郎を擁立した家臣団は管領細川勝元と元侍所頭人山名宗全の支援で持国を隠居へ追い込み義就を伊賀へ追い落としました😬ですが、8代将軍足利義政は勝元・宗全に対抗するために義就の抱き込みを画策し、その後宗全を隠居させて勝元を牽制、義就を上洛させて弥三

【3面】

郎一派を没落させました。畠山氏を与党に組み込んだのです😲弥三郎追討で大和に出兵しており、義政に無断で大和国人の争い介入を問題視されます😬      

1458年(長禄2)に隠居から復帰した宗全が、勝元ら弥三郎派が有利になったことも義就の不利に繋がります😉翌1459年(長禄3年)に弥三郎と大和国人で弥三郎派の成身院光宣・筒井順永兄弟と箸尾宗信が幕府から赦免です😬

【4面】

義就の抵抗は激しく攻撃はことごとく撃退され、1年半後の1462年(寛正3)に支城の金胎寺城を落としたのみで戦果は一向に上がらず。包囲中に長禄・寛正の飢饉が発生するのと、光宣らと対立していた越智家栄が義就に協力していたことなども長期化の一因となっていました。1463年(寛正4)4月15日にようやく嶽山城が陥落😭義就は高野山、次いで紀伊、最後に吉野へ逃れました😣  

【5面】

【6面】

河南町弘川・弘川寺でザウルスちゃん撮影                
みなさん、今日も一日元気でがんばりましょうね                           

この欄はココちゃんの担当です 

【7面】

【8面】

【9面】

【10面】

ココちゃん通信25-01-18(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)」に3件のコメントがあります

  1. 大阪のうめ吉様 いつもありがとうございます。弘川寺といえば西行終焉の地。桜の咲く頃、何度か行ったことがありますが、良いところですね。今朝は桜の花が咲く頃が待ち遠しくなるような寒さでした。

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    1. asamoyosiさん、こんにちは。いつも有難うございます🙇‍♂️弘川寺、早くから行こう行こうと思っていたのですが、地理的に遠そうで😅実際に行ったら予想以上に遠かったです😣でも行きがいがありました🤗
      ★寺そのもの★みどりの百選選定地★かつての戦場
      など、三つの連載で取り上げられます🥰
      西行記念館がありましたが、ここには入りませんでした😅桜の咲く頃に行きたいです😉

      いいね: 1人

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