
ー932ー 歴史の人物像
歴史の人物像
🗿 7🗿 親鸞聖人

親鸞聖人
大阪府堺市堺区神明町東3-1 本願寺堺別院本堂前
1173年、京都の日野の里(現・京都市伏見区)で生まれました。父は下級貴族の日野有範です。母については記録が残っていません。
1181年、源平合戦が起こっていた時期です。親戚の勧めで京都の青蓮院という寺に出家します。現在も現存する寺です😲
天台宗の僧侶として一歩を歩み始めます。数え9歳でした。出家後は名前を範宴(はんねん)と名乗っています😃
天台宗総本山の比叡山に登り、 20年間に渡る厳しい修行と学問に打ち込みます。ですが、比叡山での修行は仏教の真理を見出すことができないとあって、1201年に比叡山を降ります。
この時代、比叡山は政治と結びついていたこともあり、仏教を信仰する場にふさわしくなかったのです😔比叡山を降り、聖徳太子が創建したと伝えられている京都の六角堂で百日間と定めた日数を閉じこもって心身を清め祈願し修行する参籠(さんろう)に徹します😲
参籠から95日目の夜が明け、生涯を大きく変える出来事が起こります。目の前に突如として聖徳太子が現れて、お告げを伝えたのです。「お主の悩みを解決したくば、東に向かい法然という僧のところへ行くのです」と。法然は鎌倉仏教の1つで「浄土宗」の開祖後、親鸞の師匠となる人物です🤗
法然のもとへ向かい、ここで法然から浄土宗の教えを学びます。 浄土宗の真髄は専修念仏にあります。ただひたすら南無阿弥陀仏を唱えれば、厳しい修行をしなくとも、全ての人は阿弥陀如来の救いで浄土に往生できるというのが浄土宗の教えなのです😃
僧侶としての修行を否定するもので、教えは際立った思想でした。当然ながら他宗派から異端な信仰として敵対されました😫
しかし「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」と浄土の教えを学びます。法然を師と仰ぎ、法然のもとで6年間を過ごします😊

親鸞聖人
法然から「綽空(しゃっくう)」の名を与えられ、一番弟子とも言えるほど法然から強い期待と信頼を寄せられます😃
法然はその信頼の証として、自らの著書「選択本願念仏集」を書き写すことを認めます。法然はこれまで、限られた弟子にしか書写を許さなかったことを綽空に許したのです😲
このようなこともつかの間、1207年に、承元の法難なる事件が起きたのです。女性スキャンダルです。法然の弟子が他人の女性に手を出したことです。厄介なことに、その女性は後鳥羽上皇に仕える女官だったのですからたまったものでありません😫
僧侶が女性トラブルを起こすだけで大問題なのです。法然の弟子の影響を受け、女官が出家して仕事をやめてしまう事態に発展したのです😲
「私の女官に手を出すとはいい度胸だ。浄土宗は、新興宗派で良からぬ話も聞いておる。絶対に許さないから覚悟しとけ」ということになります🥶
女官に手を出した法然の弟子2人は死罪となります🥶後鳥羽上皇の逆鱗は浄土宗そのものに及び、浄土宗開祖の法然とその弟子たちを京から追放し、流罪としたのです🫨🫨
綽空(親鸞)も流罪となり越後(現在の新潟県)に飛ばされてしまいます😭数え35歳の時です😭
その後、浄土宗は、「念仏を唱えればOK」というとてもシンプルでわかりやすい教えだったため、仏教の知識がない民衆から朝廷の貴族たちまで幅広い層へと爆発的広がりをみせます😃
南無阿弥陀仏と唱えれば全ての人が救われるのなら、妻を持ったとしても浄土への道は変わらないはずだ🤔こう捉えたのは綽空(親鸞)でした。幸いに師匠の法然もこのことを認めたのです😃
こうしたことで、浄土宗の登場が、それまでの常識を大きく覆し、仏教界に大変革をもたらしたのです😍

親鸞聖人
綽空(親鸞)は、1207年から家族とともに越後国で生活しました🥰
1211年に流罪が許され、1214年、門弟とともに常陸の国に移り住みます。東国への移住は、まだ浄土教の信仰が広まっていない関東地方での布教を行うためでした🥰
1212年に師匠である法然が亡くなっています😭綽空(親鸞)は、常陸国で約20年間にわたって布教を続け、関東一円に念仏の教えを広める活動を続けました🤗
1224年には、浄土真宗の教えを記した主著「顕浄土真実教行証文類」を書き上げました。この1224年が「親鸞が浄土真宗を開いた年」とされています🥰🥰😃