
ー892ー 歴史に残る古戦場


若江城の若江城の戦い戦い 記念碑などが建つ若江北町の交差点
大阪府東大阪市若江北町3
河内国若江城(今の東大阪市若江地域)で行なわれた織田信長軍と三好義継軍の合戦です。結果は織田軍の勝利に終わりました😭

若江城の戦い 織田信長によって廃城に追い込まれたことが追善碑に記されています
1573(元亀4)年、武田信玄が死去し、信長包囲網は織田軍の反攻を受けて一気に瓦解し、朝倉義景や浅井長政らは信長に討たれ、信長包囲網の黒幕である室町幕府第15代将軍・足利義昭は京都から河内の三好義継(義昭の妹婿)のもとに追放されます😫

若江城の戦い 若江木村通り 若江城にゆかりの人名が通りに名付けられています
義昭は追放されたにもかかわらず、諸国の大名に対して信長討伐令の御内書を乱発し、義継も義兄に当たる義昭に次第に同調する動きを見せます。このため、信長は天正元年(1573年)11月4日に上洛し、義継の討伐を決めます🤬
この年1573年は天正元年に変わります

若江城の戦い 通りの向こう側、樹木が立っているところが若江城の位置です。現在は公民館などが建ち、手前には史跡碑なども見られます
この頃、内紛が起こっています。義昭に同調して信長に強硬的な姿勢を見せる義継に対して、家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三人衆らは信長の実力を恐れて信長に誼を通じ、義継にも信長への従属を勧めています😫

若江城の戦い 史跡碑などがあるところの解説板
このため義継はこの3人を遠ざけ、寵臣の金山駿河守武春を家老にして反信長の姿勢を固めます。信長が派遣した佐久間信盛率いる大軍が若江城に攻めてくると、義継は籠城して迎え撃ちますが、肝心の義昭が近臣だけを連れて堺に逃亡したために士気が奮わず、さらに主家が滅ぼされることを恐れた若江三人衆が金山駿河守を殺害し、佐久間の軍勢と内通して城門に引き入れてしまったことです🤬

若江城の戦い
このため、義継の敗戦は決定的となり義継は妻子一族を自ら殺害し、10日以上も戦闘を続けますが、11月16日に近臣の那須久右衛門家富に介錯させて自害しました。 義継の死により、京都で栄華を思いのままにした三好本家も滅亡します😭

若江城の戦い この周辺で両軍の戦闘が繰り広げられたのです
その後、河内高屋城にあった三好康長も信長に降伏して河内は織田氏の支配下に入り、若江城以外の河内の城は破却され、国は織田家の石山本願寺攻めの拠点のひとつとして重要視されることになります😫

若江城の戦い 旧若江城の史跡碑や地元顕彰会による碑が建てられています

「大阪のうめ吉おおさか撮り歩」への1件のフィードバック