


誉田古戦場
大阪府羽曳野市
大阪府羽曳野市の誉田八幡宮、全国で最も古い八幡宮で、1000年以上もの歴史を持っています。ですが、この周辺地域は歴史上数多くのの激戦が繰り広げられた地です🤬
この地には、応神天皇の陵があり、誉田御廟山古墳一帯は、応神天皇が幼少の頃に過ごした土地とされています。妻の仲姫命がこの辺りを治める品陀真若王の娘であった事から、この地に陵が築かれたとされています。こうした地ですが…

誉田古戦場
★誉田八幡宮周辺をめぐる争い 誉田八幡宮は、京都からの東高野街道、大和国に続く竹内街道にも近く、さらに竜田越奈良街道にもほど近い交通の要衝になっています😲
こうしたことから、人、物、金が集まるだけでなく、奈良や京都方面から侵攻してくる敵を防ぐ南河内の防衛拠点となり、誉田周辺では数多くの争いが繰り広げられています🤬

誉田古戦場
★藤井寺合戦
南北朝時代、湊川の戦で敗れ自害し、後に父の遺志を継いだ「楠木正行」は北朝を奉じる足利方との戦いを継続。足利尊氏は抵抗を続ける楠木正行に追討軍を差し向けますが、足利軍は藤井寺付近で楠木正行の奇襲を受け敗退。この時、楠木正行軍は誉田八幡宮から出撃しています😣😣

誉田古戦場
★畠山家当主を巡る争い
室町時代中期に、河内国守護「畠山家」において跡目争いの結果、二派に分かれた対立が起きます。総州畠山家の畠山義就、尾州畠山家の畠山政長は誉田において激しい戦いを繰り広げました🤬🤬
誉田八幡宮の数キロ南には河内守護の居城「高屋城」が存在していたことから、高屋城をめぐり何度も激しい戦いを繰り広げています🤬😫
誉田八幡宮の「誉田林古戦場跡」の説明板に1504年、尾州畠山家の畠山稙長と総州畠山家の畠山義英が合戦の後、和議となり「社前の盟約」を結んだの記述があります😣

誉田古戦場
★高屋城の戦い
戦国時代には畠山家の力は衰え、河内国において三好家と畠山家の家臣である遊佐家が河内を支配します😨
1575年の織田信長による高屋城の戦いで三好、遊佐は滅亡します。織田による支配下で、河内国は一時ですが平穏の時代を迎えます。ですが、誉田八幡宮は信長により社領を没収となります😭😭
信長の死後、天下をとった豊臣秀吉によって200石の領地が寄進され復興するかに見えました。ですが、1586年に社殿が焼失。社殿を再建するために豊臣家の片桐且元が奉行となりますが、大坂の役が勃発し再建が中断してしまいます😣😫

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★大坂夏の陣
徳川軍が大坂城を攻めるため、大和方面から10万の兵を率いて奈良街道より河内へ侵攻。豊臣軍が徳川軍を防ぐため誉田八幡宮、道明寺近辺で激突します。この戦いで柏原市の小松山で戦死した後藤基次、豊臣方の有力武将、薄田兼相も誉田八幡宮から出撃しています。薄田兼相は奮戦するも、圧倒的な兵力差の前に討ち死にです😭😭

誉田古戦場
度重なる戦火で被害を受け、何度も再建をくり返してきた悲劇の誉田八幡宮です🤬🤬