大阪のうめ吉おおさか撮り歩記

ー522ー 歴史に残る古戦場

玉手山古戦場

大阪府柏原市玉手町玉手山

1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌1615(慶長20)年、夏の陣と、2度にわたり豊臣氏と徳川氏の戦場となったのが玉手山です😭
玉手山は、夏の陣の戦端が開かれた地、豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃ち討ち死にした地です😭

玉手山古戦場

戦闘は、要衝「小松山」の争奪をめぐり行われました
小松山は、現在、市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っているところで、市立玉手山公園、片山から玉手、円明地域にかけた一帯が戦場となりました🤬

玉手山古戦場

玉手山公園内になる山上や、付近一帯は、又兵衛基次の碑を始め、両軍戦死者供養塔や戦跡碑、徳川方の武将の墓などが残されています😫

玉手山古戦場

大坂冬の陣 1598(慶長3)年 太閤豊臣秀吉、没
1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1603年、征夷大将軍の宣下を受け、天下の実権をほぼ手中におさめます😲

玉手山古戦場

一方、秀吉の遺児、豊臣秀頼は、関ヶ原の戦いの後、摂河泉(現在の大阪府全域、兵庫県の一部)65万7千石の一大名に転落です😔
とはいえ、天下の名城・大坂城に莫大な金銀を貯える秀頼は、家康にとって、あなどりがたい存在でした🤔
家康は、豊臣家の財力を失わせることを企て、故太閤秀吉の菩提を弔うためと称し、秀頼に対し、寺社の造営・修復を勧めます😏
手はじめは京都東山・方広寺大仏殿の再建工事です

玉手山古戦場

このあと次々と寺社の造営・修復が進みます。方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、生国魂神社、東寺金堂、石清水八幡宮、勝尾寺、中山寺、叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺などです😲😲
1612(慶長17)年に方広寺大仏殿が完成。19年に大仏の鐘も完成します
家康は、このとき鋳造された鐘銘の中に「国家安康、君臣豊楽」と刻まれていることにいいがかりをつけます🤬

玉手山古戦場

豊臣氏を挑発したというものです。「家康」の名を「国安」で切って家康を呪っている。「君臣豊楽」とは、豊臣を主君として楽しむの意味だとしてです🤬

玉手山古戦場

この一件を弁明するため、片桐且元が家康の元に向かいますが、且元が豊臣氏から裏切り者の汚名を被せられ大坂城から退けられます😫
こうしたことから両者の戦いは避けられない情勢となり戦闘に突き進むことになります🤬🤬

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